PRESS #8 全日本大会 「競技者以外の目から見たディベート

皆さんこんにちは。いよいよ年度も終わりを迎え、春の陽気が近づいてきましたね!

今回は、「第17回全日本大学ディベート選手権大会 『競技者以外の目から見たディベート』」と題して、ディベート未経験でありながら全日本大会の観戦にいらした青山さんに、ディベート「観戦」の魅力について寄稿をいただきました!

野球から将棋に至るまで、対戦型のゲームにおいて「観戦」は多くの人を惹きつけるコンテンツとなっています。ディベートにも観戦文化が根付く可能性はあるのか、観戦でどんな効用が得られるのか……をご一緒に考えていければと思います。

 こんにちは。私は青山知樹と申すものです。縁あって、2017年12月に開催された第17回全日本ディベート選手権大会を観戦、寄稿させていただくこととなりました。拙文では「競技者以外の目から見たディベート」ということで、1、ディベート観戦それ自体の面白さ、2、観戦後のディベート観戦の効用、3、ディベート観戦への先入観・ハードルの3点について、所感を述べさせてもらいます。

 またはじめに、拙文はディベートの様々な形態のうち「アカデミックディベート」の試合を観戦して書かれたもので、文中で言うディベートはすべて「アカデミックディベート」のことを指していることをお断りしておきます。

 

1、試合の面白さ

 

ディベートの試合の面白さは以下の点に感じました。

1)現実に「問題」とされている事柄(私が観戦させていただいた試合の論題は「日本政府は難民の受け入れ基準を緩和すべきである」)が論題であること。

2)肯定/否定、どちらのサイドが勝つかわからないこと。

3)引用される研究・事実。

この3点です。

 

1)の点について。やはり、抽象的かつ難解で、「そんなこと考えなくたって困ることはないよ」というような論題よりも、近いうちに自ら意思決定を下さなければならないかもしれない論題の方が観戦するうえで楽しみやすいと感じます。やはりある程度の「わかりやすさ」と、「現実味」というものは大切です。

2)について。現実の国家における政策決定の場面では、政策についての肯定/否定それぞれの論理の他に、政党間のパワーバランスや諸団体との関係など様々な要素によって政策が決定されるかと思います。そうした場合、政策の成否について、ある程度の見通しがついてしまいます。ディベートの場合は(競技なので当然ですが)そうではありません。試合中に語られる論理だけが勝敗を決める要素になります。論題そのものや論理は甚だしく現実的でありながら、議論のあり方としては良い意味で現実離れして理想的である、という点が非常に面白く感じられました。

3)については、論題に関する堅実な学術研究から、聞いてびっくりするようなとんでもない事実まで、実に様々な引用がなされます。列挙される引用を聞いているだけで非常に勉強になりますし、面白さを感じます。私が最も面白いと感じた引用を挙げると、「日本政府は、母国で強制労働をさせられている、という理由の難民申請を『食事の機会をたまに与えられているため、生命の危機に瀕しているとはいえない』と拒否した」というものです。このようなにわかには信じがたいような知見を、豊富に得られることもディベート観戦の楽しいポイントの1つと感じます。

 

 

2、観戦後のディベートの効用について

 

1)選手をやる場合と同じ効用が見込める。

2)ニュースに対する「引っ掛かり」が増える。

 

1)の点について、観戦をするだけでも、このCoDAのサイトで紹介されているようなディベートの効用を実感します。もちろん、実際に選手としてディベートを行う場合と比べると少ない程度にはなると思いますが、特に「多角的視点を習得することができる」、「固定観念にとらわれなくなる」という2点についての効用を強く感じます。これはディベート観戦という行為が、多角的視点から物事を吟味した議論の応酬を追いかけることだからであると私は考えています。そうした「思考の仕方」に加えて、観戦した試合の論題についての多角的な意見・事実を得ることができます。これは試合中に肯定/否定両サイドから様々な研究・事実が引用されるためです。ある事柄についての多角的な意見・事実を1人で収集・吟味するということは膨大な時間がかかる困難なことであり、たとえ時間があったとしても、収集を行う時点でバイアスがかかってしまう可能性が高いです。ディベート観戦では、ごく短い時間かつバイアスのより少ない形で多角的な意見・事実に触れることができます。

 

2)の点について。ディベート観戦をして以来、論題に関係するニュースや新聞の見出し(私の場合は難民)に「おや」と思うことが増えました。ディベートは現実に問題とされている事柄を論題として扱うので、観戦の後日常に戻った際にも「さぁどう考える?」と問かけてきます。私はまだ難民問題についての試合しか観戦していませんが、今後また別の論題の試合を観戦したならば、今回同様に興味関心が広がっていくように思います。また、広がった興味関心について考える際に観戦以前と比べて、1)の点で述べたような多角的視点で検討するようになったと思います。

 

まとめると、ディベート観戦は思考の能力そのものをブラッシュアップしつつ、思考の対象の拡張も同時に促してくれる、と言えるように思います。

 

 

3、ディベート観戦への先入観

 

1)素人がスピーチを聞くだけで試合についていけるか心配だ。観戦するだけとはいっても、論題についての予習が必要なのではないか?

2)論題やディベーターの論理を理解する以前に、テクニカルタームが多くて試合についていけないのではないか?それに関連して、ジャッジの判定理由についても何を基準に判定しているかよくわからないのではないか?

 

以上2点が、私がディベートを観戦する前に抱いていた先入観と不安です。この2点について、実際にディベート観戦をしてみてどう認識が変わったかをまずは述べたいと思います。

 

まず1)の先入観については、確かに、観戦者に一定以上の能力を要求する所はありました。具体的には、聞き取りとそれをメモに落とす能力、試合で展開される論理に対する理解力、といった能力です。しかしこれ等については特殊な訓練が必要なほどの能力が要求されるというわけではなく、あくまで一般的な範囲で「それなり」にこなせるだけの力があれば、問題なく試合を楽しめるだろうと思います。

また、論題に対する予習については必要がありませんでした。ディベートの試合は基本的に「試合の中で述べられたこと」のみを判定の対象にしますし、試合中に具体的な事例・事実が豊富に引用されるからです。当然、一般常識程度の知識は持ち合わせていなければ難しいかもしれませんが、試合を行うディベーターの方々の様に入念なリサーチが必要というわけではありません。むしろ、「試合の中で述べられたこと」のみから判断を下す、という点から、事前にあまり勉強しすぎない方が観戦する分にはヨリ楽しめる、という面もあるかもしれません。事前のリサーチをしないまま試合を観られる、というのは観戦者という立場でしか出来ないことですから。

 

次、2)の先入観についてです。限られた時間内で議論を戦わせる、という競技の性質上、どうしても略称やテクニカルタームというのは必要になりますし多用される印象でした。一応事前にディベーターの方に教えていただく等して、語義を知っておいた方が観戦上ひっかりを少なくするのに有用なのは間違いありませんが、それの意味があいまいなままでも、それによって論点や理論そのものの理解が妨げられるようなことはありませんでしたので、そこまで神経質に気にしなくても良いかと思います。

続いて、ジャッジの判定理由についてですが、こちらは先入観にあるような不安はもちろん、他のあらゆる不安は杞憂になりますので、特に構えることはないと思います。というのも、ジャッジの投票理由の説明は試合中のスピーチに比べてゆっくりしていますし、肯定/否定両チームの論理やどのような論点が投票を分けたか、を丁寧に整理しながら進んでいくからです。

 

総じて、私が「ディベート観戦」について先入観として抱いていた「ハードルの高さ」は大半が杞憂であったように思います。実際、それなりの能力を求められたり、1試合観ただけでは難しいかな、と感じるところが全くないというわけではありませんでしたが、その難しさ込みで十分楽しめましたし、観戦を楽しむ為にちょっと初期投資としての苦労が必要だ、ということは、何もディベートに固有の事情ではないとおもいます。それなりの能力、といっても、少し早口な先生の講義を聴講できる、くらいのものかと思いますので、ディベート観戦のハードルは考えるほど高くはない、というのが私の感想です。

 

以上、拙い文章ですが感想を述べさせていただきました。拙文がディベートの発展に何らかの形で寄与できれば幸いです。ありがとうございました。

青山さん、寄稿ありがとうございました!
ディベートを「観る」中でも、競技者が感じている魅力の一端を感じることができることが覗えます。特に、競技者のリサーチから導かれる常識を覆すような分析やある種良い意味で「現実離れ」した世界観は、観戦者のその後の生活にも新しい視点や気づきを与えてくれそうです。
4月からの新年度も、CoDAは勿論様々なコミュニティで大会や対戦会が行われていきます。ディベート経験者で競技から離れている方から全く未経験の方まで、この機会にディベートの「観戦」に足を運んでみてはいかがでしょうか?